3月13日説教のあらまし
使徒言行録 14:1~7、創世記 3:20~24
「 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」(使徒言行録14:4)
パウロたちはイコニオンという町に行きました。しかしここでもイエス様を巡って人々が対立し、町が二分するまでに至ってしまいました。
人間は何かひとつの命題が与えられたとき、それに対して「はい」か「いいえ」かを選ぶ自由が与えられています。しかしそれによって、自分とは異なる考えの人を裁いてしまい、延いては分断に至ってしまうことがあります。せっかく自由が与えられているのに、その自由を行使すると分断につながるのです。
こうなったことの大もとを辿れば、人間が善悪の知識の木の実を食べてしまったことに行きつきます。人間は神様から祝福されない形で善悪を判断するようになったため、「はい」か「いいえ」かの自由が、自分の善で人を裁くということにつながってしまうのです。
しかし神様は、そのような私たちに、イエス様の命を犠牲にして作った「キリスト」という皮の衣を着せ、善悪を知るものとして世に派遣してくださいました。
ですから私たちには、神から世に派遣されたものとして生きる責任があるのです。確かに私たちの善悪の判断は不完全であり、時に分断を招くようなものでしかありません。しかし神様は、それすらもキリストという衣で覆って「良きもの」とし、すべてが一つとされる日に向けて御業を為して下さいます。そのことを信じて、自分の持つ善悪の知識を存分に用い、神への責任を果たして生きることが重要なのです。
◎私はこのお話を聞いて、マタイによる福音書5章の山上の説教の中に、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」とあるのを思い出しました。自分の罪深さにたじろぐことなく、イエス様に救われたものとして堂々と生きることが求められているのですね。
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