1月30日説教のあらまし
コヘレトの言葉 3:1~17 「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)
11節の前半は、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と いう口語訳聖書の名訳が良く知られています。求める時があれば、失う時 もあり、愛する時があれば、憎む時もある。それでも、「時にかなって美し い。」と言うことができるのは、私たちが歴史の一点に打ち込まれた、主イ エス・キリストの「十字架の時」と「復活の時」を知っているからです。
人は、神に定められた時に生まれ、洗礼を受け、信仰を告白し、また、 定められた時が来れば旅立って行きます。結局残るのは、主イエス・キリ ストという揺るぎない岩と、そこに建てられた十字架しかないと思わせられます。
私たちが築いたすべての業、すべての時は過ぎ去るかもしれませんが、その一つ一つが、主イエスの十字架と復活の時に結び付けられているからこそ、儚い人間の集まりに過ぎない教会は、それでも、私たちにと って確かな拠り所であると言えるのではないでしょうか。
コヘレトは、人生の空しさ、不条理さについて繰り返し語ります。でも、 だからこんな地上に生きることなど大したことはない、意味はないのだとは言っていません。
私たちの人生は、神の永遠のみ業を理解するには、あ
まりにも短く設定されていますが、短く儚いからこそ、食べたり飲んだり、
泣いたり笑ったりしながら、家族や友人たちとの日常のささやかな喜びを、
大切に、丁寧に積み重ねて行きたいのです。
◎きょうの説教は、豊明新生教会の河合佐紀先生がしてくださいました。
はるばる名古屋の近くから来てくださった河合先生に、主の祝福と豊かな恵みがありますようお祈り申し上げます。
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